しらたまゲームズ

親馬鹿が高じて、しらたまさんのゲームを作る事になりました。
しらたまさんだけかと思いきや、もう一本趣味丸出しのゲームもできちゃいました。
げすらぶ。

ゲームの手触りについて
2019/12/2 2:31
ブログ

こんにちは、しらたまゲームズのちゃぴと申します。

この記事はBoard Game Design Advent Calendar 2019の2日目の記事として書かれました。

心の師の一人でもあるカレーさんのアドベントカレンダー、自分が書くなど恐れ多くも勿体無い、とか去年殊勝な事言っておりましたが、容赦なく今年も書きたいと思います。

今年のテーマは「ゲームの手触りについて」です。

手触りという言葉について色々思うことがあると思いますが、私はボードゲームがボードゲームである存在意義、レゾンデートルと考えています。
レゾンがデートルです、まるで樹脂で固めた亀のようですね。レゾンがデン!

アナログゲームにはWEBバージョンやアプリバージョンがあるものも多いですが、私は正直あまり楽しむ事ができません。戦略に集中できるのは良いのですが、終わった後の味気のない「You Win」の表示と、すぐさま次のゲームのためにOUTしていくメンバーリストにいつも寂しい感覚を味わっています。
まるでソリティアを延々やった後のように…

この満足感が得られていない原因として、私は本来のボードゲームにあるいくつかの手触りが欠落しているからではと考えています。

ここからは拙作、雪割の花を例に出して話します。
今回の教材です、みなさんお手元にご準備はよろしいでしょうか?

無い人はイエローサブマリン様にGOです。

http://www.soyoko.net/flawlessflower/

手触りの直接的な部分は物理コンポーネントですがコンポーネントの必然性を担保するのはアートです。
アートの必然性を担保するのはシステムです、通常であれば。
去年あれだけ、作るのはコンセプトからとか言っておきながらこれですよ。
人間は常に変わり続ける事で進化していくのです。

本作のコンセプトは「僕の考える最強のアートを魅せる」です。

自慢なのですがうちの相方が描くイラストは本当に素晴らしく、賞を頂くことも何度もございました。
私は初期からのファンでもあるのですが、二つ残念な事がありました。
1、最近育児で忙しく、新しい作品を作る時間が限られてしまっている事と、
2、素晴らしい作品であってもイラスト単独ではすぐに消費され過去作となってしまう事です。

じゃあ過去作品を使ってゲーム作れば良いじゃん!ローコスト!俺天才!ひゃっほう!
…と思っていた時期もありました。
最強のアートを使って、アートありきでゲームを作る、それはシステム側にも最強が求められることに当時はあまり気が付いていませんでした。
システムを組んでは破棄し、煮詰めて煮詰めて、どんどんシステムは大型化していき、システムを補完するパーツは増え続け、魔女と対になる少年はありもののラフイラストを投入する事で制作時間を削減っ!
削減できるわけないだろ!カード品質にするために全部書き直しだぞ分かってるのか?\(^o^)/
ユニークカード少年24体?!そこだけでゲスラブの3倍だぞ本気か?
…なにこの膨大な作業量www
というわけで2年半かかりました、色々残念ですね。
でもここは単なる苦労話で本題と関係ないです。☆(ゝω・)vキャピ

さて、本題は2の方です。
素晴らしい作品であってもイラスト単独ではすぐに消費され過去作となってしまう事。
これは創作物の宿命でもありますが、絵は一瞬で効果を発揮するがゆえ寿命も短いです。
そんな絵が永く生き続けるためには命を持たせる必要があります。
命とは物語です。

名画は時に一瞬で人の心に命を焼き付け永く生き続ける事ができますが、
その一瞬を産むには受け手側のタイミングも重要となります。

焔の魔女のイラスト、あれが当時の私に刺さりました。
愛してやまないMTGのInferno(赤赤⑤)のイメージと重なり、
彼岸花の花言葉がヴェラ・リンの曲名と重なり博士の異常な愛情のラストシーンを想起させ、
中二時代から温めてきた黒歴史の物語と結びつき、
操られ人形館さんの「The Majority」の魔女が可愛くて可愛くて仕方なかったことから
いつかこのイラストで魔女のゲームを作ろうと決めて試行錯誤を続けていました。

絵に命を与えるには物語が必要となるのです。

そして最高の絵を生かすための舞台を作り始める事となりました。
かなり奇形の類ですね、ほとんど参考にならないと思いますが書き散らします。

システムの着想としてはいきあたりバッテラで試した重要度別に複数サイズのカードを扱う所からでした。
明らかに異なるサイズのカードは用途の違いを触感で感じさせ、面白い手触りでした。

ここから当初は大きな親カードと小さな子カードで、子カードを使い潰していくゲームが産まれました。
魔女が子供を銃弾にして相手のライフを奪っていくイメージですね、ひどい話です。
薄暗く共感しづらい物語です、爽快感がありません却下です。この頃が2016年でした。

やはり弱くとも長く大事に扱うのがエモでしょう、感情移入できないキャラクターに物語は産まれません。
大きいサイズの魔女カードがスートと数字を担当、小さいサイズの少年カードが特殊能力バリバリを組み合わせた変態トリテ!
却下です、物語が細切れになり選ぶカードに思い入れを付与する時間がありません。
それなりの長さがなければ物語が成長しません。

争いではなく競争しつつも下位は協力し合うような関係。
指導する魔女と少年の特殊能力を使い、遺物を拾い魔物を倒して勝利点を稼ぎ、難関を突破するような学園試験物、これが2017年頃。
しかしこれも却下、それでは魔女の力が弱くなる、あのイラストの彼女は圧倒的な力を持っています。

圧倒的な力はあれど相手を敗北させるゲームは屈服した敗者が産まれるます、追い詰められたプレイヤーに物語を産む余裕はありません。
お互い殴り合うのじゃない、互いに自分の目的のために歩む世界観が理想。
プレイヤーは自然界の具現化した魔女、それぞれが冬を終わらせるために、ままならない自然をダイスを使って表現、街コロやカタン風の対戦ゲーム。
何かが見えた、フォルダの名前が「四季」となる。2018年初旬!

子供は2次創作できる仕様が好ましい、その方が物語が勝手に成長します。
特定のモチーフを元にシリーズ化できるキャラクター、
身近な知識でもオリキャラを量産できる一般性と拡張性、
モチーフごとに由来を持ち、性格や能力、戦闘方法のイメージがしやすいもの。

性別は女キャラは男性には受けるが世間にありふれ過ぎています。
女性には少年が受けるが男性に受けが悪くなる。無性、両性は最強!宝石の国!

植物をモチーフに花言葉をキーとしたキャラクターを造形、命名「アドニス」!
花言葉は大好物です!メンヘラワードたっぷりで美味しかったです。

ここらで魔女集会ショックがありました。
強大な魔女と、弱くとも成長する子供の関係性、庇護と成長を経て、ともに歩むことで産まれる物語…。

求められています、この世界観は間違いなく刺さる土壌があると確信しました。
そしてその土壌は腐った方で構築されている、子供じゃない、魔女に本当に必要なものは少年です!

<<女型のアドニスが削除されました。>>

<<アドニスに何かが生えました。>>

ならば物語で最も重要なのは、共に歩む少年を選ぶ瞬間です。
しかしカードを選択する「ぐぬぬ」を味わってもらいたいけど、動機が弱いと「ぐぬぬ」は発生しません、
細かい数値や記号などは理解した者でなければ意味を成しません、
果たしてプレイヤーは何も知識の無い所から何かを選ぶ事ができるのか。

そうして実験作「魔女達の集会で…」をリリース。
文字だけで何もない所から、動機を引きずりだす事はできるのか。

結果は大成功、日本人の妄想力は世界一チイイイイ!!
できんことはないイイィーーーーーーッ!!

CIVからの勝利条件別のマルチエンディング!
サイスやアンドールを参考にセフィロトを模したアチーブメント兼ストーリークエスト!

kurumariでオムライス食べながら某氏に指摘され、しらたま会で某氏に指摘され、最後の最後まで問題だった先行プレイヤーとの間が詰めれない問題。
これが現在の勝利点システムと1:3に陣営を収束させる天才的な仕掛け思いついたのが2018年の終わり。

あとはひたすらテストプレイ、システムの調整、剪定。
半年近く弄り倒し2019年の8月頃にシステムをFIXさせてようやくアートワークに突入したのでした。

で、これ何の話だっけ?

あ、そうそう手触りだ、ボードゲームの手触りだ。
そう、プレイヤーに物語を想起させ、ストレスを与えることなく、ゲーム終了後にもまだその世界に名残惜しい気持ちが残るような作り。
それが手触りです。

いかに物語に没頭してもらうか、それがデザイナーの考えるべき「手触り」です。
たとえば雪割の花の支配キューブが木ではなく、透明なプラキューブである理由なのです。

ここまでいかがでしょうか、雪割の花のデザイナーズノートの断片。
少年を買い漁るような告知ツイートだけを見て作品を見るのと、ここまで読んだうえで作品を見るのと。
多分見方が違っていると思うのですよ、多分。

物語は手触りを良く感じさせます、良い手触りとは物語を招くものです。
この二つは相互に補完し合いお互いを高めます。

相変わらず前振り長いと思います。

雪割の花は「僕の考える最強のアートを魅せる」です。
完成までに考えることのできたあらゆる良い手触りを目指して作られています。

たとえば雪割の花の支配キューブが木ではなく、透明なプラキューブである理由は輝きなのです。
雪に覆い隠されようとしている世界図に、強き力を持つ存在が輝いているのです。

さぁ、この物語でプラキューブが正当化されました、伝統的な木のキューブではないプラの手触りを正解と感じるようになったでしょう。

コンポーネントの紙、一般的にエンボス仕様は高コストで力が入っていると言われています。
それ関連性なくない?

エンボスありは接触面が少なくなるので滑りがよくなりますが、接触面に摩擦が集中するので白く削れやすいです。
またどのような角度でも反射が一定量あるのでまぶしいです。
エンボスなしだと、特定の角度での反射が強くなりますが、それ以外では反射は少なく、凹凸に邪魔されずに絵を見やすいです。
接触面が広いので滑りは悪く、カードの耐久性も多少弱くなります。
またカードのふちが黒枠やベタの面積が広いと傷みが目立ちやすくなります。

雪割の花はカードはアートを魅せるためにエンボスなし一択です。
逆にボードはエンボスを付けてカードの移動や円盤の回転をスムーズにすべきです。
タイルチップはボードに乗せてあまり動かしませんがめくるときの指へのとっかかりのためにエンボスありです。

ダイスは木です。ボードの上で跳ね回る可能性があるため軟らかく、角のないダイスが理想です。
資源チップはすべてユニーク形状です、コストは上がっても指で判別できるのでストレスを少なくなり盤面に集中できます。

カードのシンボルはすべて白黒なのはコントラストをあげる事でイラストの密度の中でも視認性を確保するためです。

初期土地のアイコンが5つの橋なのは、旅の男の肩に揺られ一つずつ渡るためです。

攻略させるつもりのないように見えるエピッククエストの難易度も、後から作られた値ではありませんエピッククエストの難易度を基準に少年たちの能力値が導かれているのです。
最終決戦の値は42でなければならなかったのです。付与されているフレーバーは名曲「最終定理」からお借りしています。

寄せ集めにも見える、ルールやコンポーネントはすべてフレーバーでもあります。

よくデザインのあらゆる要素は説明できなければならないと言われます。
そこに正しいか正しくないか、主観だろうが客観だろうが関係ないのです。
「其処にロマンはあるのだろうか?」と問われたときに胸をはって自分の物語を語る必要があるのです。

様々なデザイナーがきっとデザインの注意すべき点やこうした方が良いを伝えてくれます。
きっとすべてその通りですべて大事な事です、ですがあなたがそこで伝えるべき物語は何かはあなたしか答える事ができません。

一部の特殊効果のテキストはフレーバーやバックストーリーと一体化しています。
ゲーム的には無意味でも、焔の魔女の大魔法はすべてを焼き尽くす必要があるのです。
リズは「クエストに挑戦する少年に」力を与えるのではなく「クエストに挑むすべての少年に」祝福を与えるのです。
誤読や誤解の可能性があったとしても物語のためにそうせざるを得なかったのです。

この歪みこそ人が作る作品の、物語の本質と考えています。

逆の手触り、物語の障害も可能な限り排除すべきです。

たとえばすべてのボードゲームに横たわる障害、説明書です。

雪割の花では説明書を持主用とインスト用のパートに分けています。
持主は準備方法と細かいルールを把握しなければならない生贄です。
その持主用パートには誰かと遊んでみたい欲求を掻き立てるためにフレーバーを詰め込まれています。
逆にインスト用パートは上から読みながら最速5分でゲームが開始でき、
1手番目をインストに組み込んでいます。
中量級ゲームで決してルールが少ないわけではありませんが、
一刻も早くダイスを降らせるデザインとなっており、中量級とは思えない軽さを感じれると自負しています。

でもこれ、皆が当然のようにやっている「とりあえずプレイしながら説明しようか」を取り込んだデザインです。

増え続ける可能性のあるQ&Aはあえて説明書に記載せず、
外部のWEBサイトに切り分けて、常時編集可能な状態にしています。
これも軽さの演出です、そして気が付かない人には気が付かないでもプレイできるようになっています。
いつか身内以外と遊んだときに、こんな手もできるのかとショックを得る楽しみもあるでしょう。
ドミニオンで初手全部捨ての戦法を知った時の衝撃ですよ。

神は細部に宿ると言いますが、よく出来た細部を集めなければ神の降臨はできないのです。

物語という神を降ろすために、すべてに狂気と理屈を詰め込みましょう。

さて、最初のお話。
私がアナログゲームのWEBバージョンやアプリバージョンを楽しむ事ができない理由です。
狂気が手触りが足りないのです、圧倒的に。

ゲームの目指すひとつの解にごっこ遊びがあります。
世界観やルールが「やってもいいんだよ」と許しを与えてプレイヤーはヒーローや悪党になります。
策を練り、目的を先んじて達成し、敵をぎゃふんと言わせてそのゲームはめでたしめでたしとなるのです。

敵にぎゃふんとか言ってもらわなければ物語は終わらないのです。
敵を撲殺する時の手に伝わる感触こそがゲームの満足感の大きな部分とも言えましょう。
(それが無くとも耐えうる作品はまさに名作中の名作なのでしょう…。)

これこそ「誰かと物語を共有した快感」と私は考えています。
僕が相手を殴り、相手が僕に殴り倒される時、両者は同じ物語を体験しています。
殴らなくともいいです、協力ゲームで製作者の無理難題に打ち勝った時、
戦友の表情はきっと自分と同じ表情だと思います。

ボードゲームとかいう遊びにはいくつもの儀式があります。
場所を確保し、人を集め、プレイの準備を行う、ルールを覚えて他のプレイヤーに説明して…
このような面倒な遊びがなぜ多くの中毒者を産むかと言えば、それが物語を産むからなのです。
物語の摂取とは人間にとって最高の快楽の一つなのです。
摂取の際に近しい人が同様に摂取して快楽に浸っている姿を見れば、その快楽はより強化されます。
本当にタチの悪い成分ですね。
ボドゲジャンキーが隙あらば他人を沼に沈めようとする機序です。

これがモニターの向こうの相手となれば、顔も知らない関係性が皆無な相手であれば、処理が自動化され相手の選択が乱数と変わらないような手ごたえになれば、勝ち負けの筋道から物語が失われてしまえば…、これが私が感じる寂しさの正体です。

難しく言い過ぎたかもしれません、端的に言えば、知り合いをぶん殴って俺TUEEEEって言いたいのです。
本気で喜び、悔しがる相手は大事にしましょう。

この本質的な物語を強化するための「手触り」こそボードゲームのデザイナーが永遠に考えるべき事と私は考えています。

我ら哀れな子羊に後遺症あれ!