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off-boxはボードゲーム好き有志が集まった創作サークルです。月1くらいで東京近辺に集まり、自作ゲームのテスト会を兼ねたボードゲーム会(オフ箱)をやったりしています。

『チェーリズ・ウラル』 歴史背景紹介
2023/11/28 15:14
ブログ

こちらはゲームマーケット2023秋土曜日(12/9)「off-box」で頒布する新作『チェーリズ・ウラル ウラルを越えて』の背景となっている歴史について紹介する記事となります。

皆様はシベリアについてどのようなイメージをお持ちでしょうか?漠然と「寒い」「広い」といったイメージをお持ちで、そこから雪に閉ざされた無人の世界を思い浮かべる方もいるかも知れません。しかし、そうしたイメージはシベリアという土地の一面を映したものに過ぎません。ゲームの歴史的背景、すなわち17~18世紀のシベリアやロシアの商業・貿易について綴った本稿が、皆様のゲーム体験をより楽しく、興味深いものとし、また上記のようなシベリアに対する既存のイメージと異なった見方を提供できれば幸いです。


目次


ゲーム自体のご紹介

最初にゲーム自体の紹介をさせていただきます。下記の画像を御覧ください。

すでにご存知の方はこちらから本編に飛べます。

ゲームの情報はゲムマゲームページでもご確認いただけます。

ゲーム公式サイトではルールブックも公開しております。

ご興味あればぜひご覧ください。


歴史紹介

シベリアの支配と商業

シベリアとは

 シベリアの範囲については様々な定義があります。本稿では「現在のロシア連邦領のうち、ウラル山脈より東側」という範囲を「シベリア」と呼ぶことにします。ゲームボード上の西シベリア・東シベリア・極東を合わせた地域です。ウラル山脈はヨーロッパとアジアの境目とされるためこの範囲は「アジア=ロシア」とも呼ばれます。逆に西側は「ヨーロッパ=ロシア」と呼ばれます。本稿では基本的に「ヨーロッパ=ロシア」を指して「ロシア」と呼びます。シベリアは世界最大の面積を持つロシア連邦のおおよそ4分の3を占めています。

どのように(また、どうして)こんなに広い地域がロシアの支配下になったのか

 シベリアにロシア勢力が本格的に進出するのは、16世紀、イヴァン4世の時代末期のことです。すこし前史を補足すると、ロシア勢力は14世紀には様々な国に分かれ、モンゴル勢力に服属していました。その状況の中で台頭したのがモスクワ大公国です。モスクワ大公国は16世紀のはじめまでにはロシア勢力のほとんどをまとめ上げ、分裂の進んでいたモンゴル勢力からの自立も確定させます。1533年にモスクワ大公となったイヴァン4世は、1584年までの長い治世の間に様々な施策を行って後のロシアの歴史に大きな影響を与えています。対外的には、東方でモンゴル系のカザン=ハン国やアストラハン=ハン国を滅ぼし、西方ではポーランドやスウェーデンと争うなど拡大政策を取りました。

レーピン「イワン雷帝とその息子」

 

 では、シベリアへの進出もこうした拡大政策の一環であったのかというと、少なくともその始まりはそうではなかったようです。ウラル山脈のすぐ東にはシビル=ハン国が存在しました。これもカザン=ハン国などと同様にモンゴル系の政権でしたが、1555年にはロシアに恭順の意を示して貢納を行っていました。しかし、君主が変わるとロシアとの対決姿勢に移り、貢納を拒否してロシア軍を撃退し、国境周辺での略奪も行います。そのため,ウラル山脈の西麓(ペルミ周辺)で独占的に事業を行っていたストロガノフ家は国家から軍事活動をも許されることとなります。そんな折、ストロガノフ家のもとにコサック(逃亡農民を源流とし、南ロシアの草原地帯に住む半農半牧の人々)を連れてやってきたのがイェルマークでした。イェルマーク達は元々ヴォルガ川流域で略奪などを行っていましたが、国家による追討を受ける身となり、東の辺境へと逃れてきたのでした。イェルマークたちはストロガノフ家に雇い入れられると銃で武装した彼らは寡兵でシビル=ハン国の軍を破ることに成功し、1582年にその首都を陥れたのでした。報告を受けたイヴァン4世はイェルマークの以前の罪を免じ、甲冑を贈りました。しかし、同時にストロガノフ家に対して、シビルの人々が反感を持つような行動を慎むよう叱責の手紙を送っています。イヴァン4世がストロガノフ家に軍事活動を許したのは襲撃を撃退し、貢納を復活させることを意図したものであって、シビル=ハン国自体を征服するような意図はなかったようです。イェルマークはその後もシビル=ハン国の残存勢力と戦い、その最中に死去します。

イェルマーク

 

 その後、様々な征服者・軍隊がシベリアに向かいました。ロシア人によるシベリア征服は驚くべき速度で進み、17世紀半ばまでにチュクチ(アラスカの対岸にあたる地域で、アナディルスクなどがある)やオホーツクまで到達しました。この凄まじいまでの速さは、シビル=ハン国以東のシベリア地域に強力な政治勢力が存在しなかったことによって可能になりました。シベリアの狩猟先住民たちは銃を備えたロシア人の征服者たちに蹂躙されていったのです。(一方で、西シベリアの南にはカザフ系の、東シベリアの南にはモンゴル系の遊牧民がいました。ロシアもこれらの遊牧民には手を焼いたため南進は阻まれました。)

 

 ただ、それは「征服が可能であった」ということに過ぎず、「なぜ征服が進んだのか」の答えではありません。ロシア人たちはシベリアに何を求め、征服に邁進したのでしょうか。

クロテンたち。奥に猟師が見える。

 

 それこそが毛皮だったのです。毛皮はそもそもロシアの特産品でもあり、ハンザ(ドイツやバルト海沿岸の商業都市同盟)の商人などの手によって盛んに輸出されていました。乱獲によって、ロシアでは毛皮獣の数が減少傾向となっていた一方、貿易は拡大していました(後述)。このような状況において、毛皮資源が豊富で、征服の容易な土地がロシア人の眼前に開かれたのでした。17世紀初頭のロシアではリューリク王朝が断絶して動乱時代と呼ばれる混乱期が15年ほど続きましたが、その間もシベリアへの進出は続いていました。それだけ、シベリアのもたらす毛皮がロシアの人々に欲されていたということでしょう。

 ゲームにおいては「探検」アクションによって毛皮を得ることができ、プレイヤーの皆さんがシベリアを東へと探検していく展開になると言う形でこの状況を反映させています。

商人や猟師たちはシベリアをいかに移動したのか

 ここまではゲームの前提となるロシアのシベリア進出について説明してきました。ここからはそこから進んで、ゲームに登場する要素と関連する事柄について説明していきます。まずはゲームの根幹をなす「移動」についてです。

 夏に便利だったのは船でした。そもそも、ロシアの人々は中世より移動に船を活用してきました。ロシアの諸公国を建てたヴァリャーグ達は川から川へと移動することでバルト海沿岸から黒海沿岸へと移動し,更には黒海でコンスタンティノープル(現イスタンブール)へと向かうことで西欧とビザンツ帝国をつなぐ交易を担いました(時にはビザンツ帝国を襲撃することもありました)。このような移動で活用されたのが連水陸路です。平坦なロシア平原では川と川が近接していて比較的高低差の少ないルートを通り、担ぐ、あるいは丸太をコロにするなどして船ごと移動したのです。ロシアからシベリアに向かう際にはウラル山脈を横切る必要がありましたが、そこにもいくつかの連水陸路が存在しました。最北のルートはペチョラ川支流ウサ川の上流から、オビ川の支流ソビ川へ出るルートで、前述の本格的なシベリア進出の以前から、ノヴゴロドの人々がシベリアの人々と取引するために用いました(ボード上ではウラル山脈を横断する赤線のうち、最も北にあるもので表されています)。ヴォルガ川支流のカマ川の周辺地域では、カマ川支流のチュソヴァヤ川からオビ川水系へとつながる連水陸路(ボード上ではペルミから発する赤線)などが活用されたようです。また、北方では海も活用されました。 シベリア内部の交通でも川と連水陸路が活用されました。シベリアにはオビ川・エニセイ川・レナ川という大河があり、これらの水系が連水陸路で接続されました。オビ川支流のケチ川からエニセイスクに至るルートや(ボード上でもエニセイスクに接続する赤線があります)、イリムスクとウスチ=クートをつなぐルートなどです。これによって広大なシベリアの東西をつなぐ交通がなされたわけです。 なお、ウラルを超える交通路はその後陸路が整備され、そちらに移ったようです。ソリカムスクからヴェルホトゥリエを通る経路が公式なロシアとシベリアを通る道とされ、18世紀には他の道を使わないように禁令が強化されました。

 冬はソリが活用されました。シベリアの冬は寒い(南極以外の世界最寒地点オイミャコンはインディギルカ川の上流に位置しています)ですが、降雪量には地域差があります。日本では北国と聞くとどうしても東北地方のような豪雪地帯を思い浮かべてしまう方が多いと思いますが、シベリアにはシベリア気団が卓越していますし、海から離れた場所が多いため、冬の降雪量は多くはありません。そのため、冬は春などの泥濘の時期よりも移動が容易です。

 

 

シベリアの毛皮とロシア人

 ロシア人がシベリアで毛皮を得る手段は3つでした。一つは、先住民たちからの貢納です。ロシアの先住民に対する統治は苛烈で、ヤサクと呼ばれる貢納を主に毛皮で払わせたほか、労役などもありました。ヤサクを徴収する役人はしばしば先住民にヤサクを上乗せして要求し、上乗せ分で私腹を肥やしました。

 次に、先住民とロシア商人の取引がありました。ロシア商人は鉄やガラスの製品などを対価に先住民から毛皮を得ました。ロシア商人のもたらす製品は、(ロシア、ヨーロッパにおいては)毛皮とは比べ物にならないほど安いものでした。先述の貢納に比べればマシですが、これも一種の搾取と言えるでしょう。

 最後に、ロシア人自身が狩猟をするという手段がありました。猟師たちは夏の終わり頃、シベリアに到着すると魚を獲るなど冬越しのための準備をし、冬には森へと入って罠を仕掛け、クロテンなどの毛皮獣を獲りました。そして、川の氷が溶け切って航行可能になればロシアへと帰りました。2~3年の間戻らずにシベリアで狩りを続ける場合もあったようです。このような活動の結果、毛皮獣の数が減少すると、新たな場所へと進出して同じように毛皮を求める。そんなサイクルを繰り返した結果、ロシア人はシベリアを東へ東へと進むことになり、同時にシベリアの毛皮獣はみるみるうちに減少していったのです。

 ゲーム内では狩猟するとチットが消えるという形で、毛皮獣の減少を表現しています。先住民からの搾取はゲーム内では表現されていませんが、心に留めておいていただければと思います。

ロシアと対外貿易

ロシアと(西)ヨーロッパ諸国の貿易関係

 13世紀にはバルト海を渡ってハンザ商人がロシアに到来し、後にはノヴゴロドに商館を構えます。彼らは銀や毛織物と、ロシアの毛皮や蜜蝋などを取引しました。しかし、モスクワ大公国のイヴァン3世(シベリア征服開始時の皇帝イヴァン4世の祖父)が1478年にノヴゴロドを征服し、94年にはハンザ商館を閉鎖させます。1514年には商館が再開されますが、往時の面影はありませんでした。ロシア商人が海外に出ていくようになり、ヨーロッパ諸国に使節が送られる際に随行して貿易を行う例が記録に残っています。ヨーロッパからの商人ではハンザ商人に代わってオランダ商人が貿易で重要な地位を占めるようになります。オランダの重要性は、ピョートル1世の大使節団がオランダに向かい、ピョートル1世自身がオランダの造船所で働いたというエピソードから窺えます。

 

 ただ、ハンザ商人の用いたバルト海を通る通商路は、経由地となるリヴォニア(現在のラトビアやエストニア)やイングリア(現在のサンクト=ペテルブルク周辺)といった地域がスウェーデンなどとロシアの係争地でした。(ロシアから見た)外国に支配されていることが多くあり(ロシアの支配が確定するのは後述の大北方戦争後)、円滑な通商が妨げられていました。

 そのような中で1553年にロシアへとやって来たのがイギリス人リチャード・チャンセラーでした。彼は仲間たちとともにイギリスからユーラシア北方を抜けて中国へ至る航路を探るため航海に出ましたが失敗し、北ドヴィナ川河口にたどり着きます。これを知ったイヴァン4世はチャンセラーを宮廷に招き、イギリス王に宛てた親書を渡して貿易関係の樹立を求めました。これを受けてイギリス側では王室から貿易独占権を得たモスクワ会社が設立され、バルト海の通商路の代替となる白海貿易が開始されました。その後オランダ商人も白海貿易に参入してイギリス商人と競争を繰り広げ、オランダがイギリスのシェアを追い抜きます。ロシア側では1584年にアルハンゲリスク(当初はノヴォ=ホルモゴルイ)が建設され、窓口となりました。この頃のロシアが西欧に対して輸出した主な商品は木材や亜麻、麻、タール、カリといった船舶の素材・用具、皮革、穀物などで、貴金属や工業製品が輸入されました。船舶の素材・用具の輸出は大航海時代を迎えて盛んになったヨーロッパ諸国による海上交易を下支えしたとも言えるでしょう。毛皮も輸出されましたが時と共に比重が減少したようです。それは北アメリカからヨーロッパに毛皮がもたらされるようになったためでした。

 

 白海貿易の重要性が下がるのはスウェーデンとの大北方戦争に勝利し、サンクトペテルブルクが建設されてからでした。北氷洋を通る白海貿易の交易路は凍結で通行不能となる時期も長かったため貿易はバルト海に振り向けられ、アルハンゲリスクは衰退することになります。

 

ロシアと中東の貿易関係

 ロシアは中東のイスラーム諸国とも貿易関係を築こうとしました。カザン=ハン国やアストラハン=ハン国の征服は中東との交易路を開いたのです。オスマン帝国(そしてその属国のクリム=ハン国)との関係はよくありませんでしたが、交易は行おうとしました。オスマン帝国と対立したペルシアにも使節(もちろん、商人も随行しました)を送り、通商関係を確立しました。さらにはその先、インドのムガル帝国にも使節を送っています。ペルシアなどの絹織物は再輸出されてオランダなどに渡りました。イギリスのモスクワ会社やオランダ商人にはロシアを経由してペルシアと通商する権利を与えられました。

ロシアと中国の貿易関係

 東シベリアや極東の南側にはモンゴル系の遊牧民や満州(女真)人がいました。ロシアが東シベリアや極東の南部へと進出する17世紀の半ば頃は、中国で漢人王朝の明が崩壊し、満州人の清が中国やモンゴルに支配を広げつつある時期でした。極東の南部、アムール川流域では先住民が清に貢納するという状況でしたが、ロシア人たちはそこに進出していき、清との衝突に至ります。例えばアルバジンは清が建てた要塞でしたが、ロシア人たちは1651年にそれを奪って支配下に置きました。ロシアの進出に気付いた清は軍を送り、二度敗北しますが、1656年にロシア側の遠征隊を破ってアムール川流域の支配を回復します。しかし、1665年にはロシアの流刑囚たちが再びアルバジンを占拠しました。

 同時期からロシアは清へ頻繁に使節を送ります。これはアムール川流域の支配についての問題もさることながら、前述の通りヨーロッパでは北アメリカから毛皮がもたらされるようになってロシア(シベリア)の毛皮の需要が減少していたため、毛皮の市場を広げたいという思惑があったとされます。使節はアムール問題や貿易について交渉をしつつ、朝貢(周辺国の使節が中国に「貢物」をして、中国側が返礼するという中国の伝統的な貿易形式、また同時に使節に同行した商人が取引を許された)も行って利益を得ました。しかしアルバジンの再奪取が起き、その後先住民ネリュード族の族長がロシアにヤサクを納めるようになると清側は態度を硬化させます。一方で清との貿易を望みながら、一方でアムール川流域へ進出を再開したロシア側の動きは一見不可解ですが、前者は国家による政策であるのに対し、後者は毛皮を求める私的な武装集団の動きと捉えると理解できそうです。

 清側は三藩の乱(明から清に寝返って地方の支配権を得ていた将軍たちが起こした反乱)を鎮圧すると、アムール問題を本格的に武力で解決しようとします。1683年から1689年にかけてアルバジンを巡る戦争が露清間で続きましたが、ロシアはアルバジンを結果的に死守します。また、同時期に清の後援を受けたモンゴルのハルハ部がセレンギンスクなどを攻撃しましたが、ロシアはこれも退けました。ただし、和平交渉の結果としてアルグン川とスタノヴォイ山脈(外興安嶺)を国境とするネルチンスク条約が結ばれ、ロシアはアムール川流域から撤退することになります。

ネルチンスク条約を結んだピョートル1世と康煕帝

 

 ネルチンスク条約の結果として貿易も許可され、ネルチンスクを通じて北京へとキャラバンが送られるようになります。ロシア政府はこのキャラバンを国営として貿易の利益を独占しようとしましたが、個人商人が入り込むことは避けられませんでした。また、清がジュンガル(現在の新疆やチベット、モンゴルに勢力を広げていた遊牧民)を退けて外モンゴルに支配を広げると、ネルチンスクを通らずに庫倫(現ウランバートル)などを通るルートが使用されるようになります。このルートでは、庫倫で露清商人間の私貿易が行われました。国営キャラバンと私貿易によって北京では毛皮がだぶつきはじめ、また国境問題もあって、清は1717年にはキャラバンの受け入れの停止を、1720年には庫倫貿易の停止をロシア側に伝えます。ロシア側は貿易再開を求めて交渉を行い、1728年にキャフタ条約が結ばれます。

キャフタ条約を結んだピョートル2世と雍正帝

 

 この結果、私貿易は庫倫の代わりに露清国境のキャフタ・その向かいのマイマチェン(買売城)で許されるようになります。キャフタでの貿易は次第に増加し、18世紀なかばには国営キャラバンによる貿易を上回ります。こうした中国との貿易では、輸出は毛皮が大半で、輸入品は絹織物や綿織物が中心でした(茶は18世紀後半以降に増加)。

ロシアと日本の関係

 東シベリアや極東西部の毛皮獣も減少するなか、ロシア人たちは新たな毛皮獣と出会いました。海に浮かぶそれをロシア人たちは「カムチャッカ・ビーバー」と名付けました。

ロシアの学者ステラーによるラッコのイラスト。ステラーはベーリングの探検に参加し、ステラーカイギュウについての記録で知られる。

 

 そう、ラッコです。18世紀後半のキャフタにおいて、ラッコはクロテンを上回るほど取引されるようになりました。ラッコの取引が増えたのはクロテンの減少もさることながら、17世紀末のカムチャツカ進出、そして18世紀半ば以降のアラスカ進出の成果でした。

 カムチャツカ方面では、アナディルスクの要塞司令官だったアトラソフが配下のコサックを指揮して征服し、その支配の基礎を築きました。アトラソフに反乱を起こして配下のコサックの新たな指導者となったアンツィフェーロフは更に南下して千島列島(ロシア語ではクリル列島)に支配を広げはじめました。(事業カード「クリル列島の探検」に描かれているのはアトラソフです。アトラソフの名は千島列島最北端の島のロシア名に残っています。)アラスカ方面には国家事業としてベーリング率いる大規模な探検隊が送られてアリューシャン列島が発見されたことで進出が始まりました。このようにロシアの支配地域が日本に北東で広がっていくと、ロシアは日本との通商関係の樹立を目指しはじめ、一方の日本はロシアの進出への警戒を強めるようになります。

 まずロシア側に目を向けると、アトラソフのカムチャツカ征服の中で、カムチャツカの先住民に捕まっていた日本人漂流民「デンベイ(伝兵衛)」が保護されています。デンベイはロシアに日本に関する情報をもたらしました。後にモスクワへと連れて行かれ、ピョートル1世と会見します。その後は日本語の教師になったようです。日本人の漂流民がロシアに保護され日本語教師となるパターンは18世紀の間続きます。

 一方、日本側ではロシアの進出への警戒が高まる出来事が起きます。1771年、カムチャツカにいた流刑囚の一人であるハンガリー系ポーランド人ベニョヴスキー(「はんべんごろう」)が逃亡し、日本に漂着しました。彼は「ロシアが日本への攻撃準備を進めている」という警告書をオランダ商館長宛に送り、そこから幕府にも情報が伝えられます。幕府はこの情報を重要視しなかったものの、世間に情報が流出したことから知識人たちが対ロシア防衛論・貿易論を唱えるようになります。こうした書物として林子平の『海国兵談』や工藤平助の『赤蝦夷風説考』、本多利明の『経世秘策』などが知られています。ロシアへの対処方針はともかくとして、幕府は蝦夷地の探検を進めることとなり、本多利明の弟子である最上徳内らが北海道・千島列島の調査を行いました。そして1792年にラクスマンが大黒屋光太夫を連れ、貿易を求めて根室を訪れます。幕府はとりあえず貿易を許可せず、ラクスマンに対して長崎への来航を許可する信牌を与えて先送り的な対応を取りました。この時点までの幕府の対応はロシアとの交易を絶対に拒否する、というものではありませんでしたが、この後急速に「鎖国」を祖法として交易しないという方針に変化していきます。幕府は東蝦夷地を松前藩から取り上げて直轄化し、千島列島のロシア人入植者を追い出すためアイヌに彼らとの交易を禁じました。

ベニョヴスキー

 

ラクスマン

 

 ラクスマンに渡した信牌を持った使節がやってくるのは10年以上あいた1804年のことでした。使節のレザノフは貿易の許可を求めましたが、前述のように「鎖国」を祖法とする意識を強めていた幕府は拒否しました。(事業カード「日本への使節」に描かれているのはレザノフと使節の艦船の艦長クルーゼンシュテルンです。)レザノフは報復として知己の海軍士官フヴォストフらに樺太や択捉島を襲撃させました(文化露寇)。これに対し幕府はロシア船の打ち払いを命じ、さらに態度を硬化させることになります。

その他のトピック

ブハラ商人

 ブハラは中央アジアのオアシス都市です。ブハラの商人は中国・シベリア・ペルシアなどに出入りし、中継交易を行いました。また、シベリアに生活物資ももたらしました。重商主義の時代にあって、ロシアが当初ブハラ商人の関税を免除したのは後者の役割が重要であったためでした。ブハラ商人にはアストラハンや、西シベリアのトボリスクなどに居を構えた人も居ました。

マンガゼヤ

マンガゼヤは周辺の毛皮をアルハンゲリスクへと送る基地として機能したようです。また、中国へと至るルートを開拓するためにイギリスやオランダの商人が訪れてもいたようです。この動きを警戒したロシアは1620年、沿岸航路の利用を禁じてしまいました。その後、マンガゼヤは次第に衰退し、大火がおきると放棄されました。

古儀式派

17世紀半ば、ロシアでは総主教ニーコンが礼拝の際の習慣などを改めようとしました。これに反発した人々が古儀式派です。シベリアには流刑にされた古儀式派信徒や迫害を逃れて自主的に移り住んだ信徒がいました。こうした人々の布教によりシベリアでは古儀式派の勢力が強まったため、政府が古儀式派信徒の流刑を取りやめる事態になるほどでした。

ステンカ=ラージンの乱

ドン=コサックはドン川下流を拠点とするコサックで、ロシアから自治を認められ、クリム=ハン国に対する国境警備の一翼を任されていました。黒海やカスピ海周辺への襲撃を行って略奪を行うことも彼らにとって重要な収入源となっていました。 17世紀半ばのロシアではポーランドとの戦争によって多くの逃亡農民が発生し、一部はドン=コサックの地へと逃げ込みました。しかし、こうした新参者はコサックの中で低い地位に止め置かれ、略奪品の分配が少なかったり、分配から排除されたりしました。このような状況で登場したのがステンカ=ラージンで、新参コサックを率いて略奪遠征を行い声望を高めました。1670年、ラージンはロシア領のヴォルガ川流域への進軍を開始し、領主や役人を打倒して平等を実現することを人々に呼びかけました。しかし、ロシアの大軍に敗北を重ね、1671年には処刑されてしまいました。

参考文献

Arneoberg, Fil. Lic.(1955),Russia and the World Market in the Seventeenth Century, Scandinavian Economic History Review, Vol.3, No. 2, pp.123-162
Bychkov, Oleg V., Jacobs, Mina A. (英訳) (1994), Russian Hunters in Eastern Siberia in the Seventeenth Century: Lifestyle and Economy, Arctic Anthropology Vol.31, No.1, pp.72-85
Monahan, Erika (2016), The Merchants of Siberia: Trade in Early Modern Eurasia, Cornell University Press
大橋與一(1974)、『帝政ロシアのシベリア開発と東方進出過程』、東海大学出版会
西村三郎(2003)、『毛皮と人間の歴史』、紀伊國屋書店
森永貴子(2008)、『ロシアの拡大と毛皮交易 16−19世紀シベリア・北太平洋の商人世界』、彩流社
森永貴子(2010)、『イルクーツク商人とキャフタ貿易 帝政ロシアにおけるユーラシア商業』、北海道大学出版会
三上正利(1957)、「西シベリアの民族およびウラル越え交通路」、『史淵』72号、pp.53-76
三上正利(1961)、「ロシア人の西シベリア征服と毛皮資源」、『史淵』84号、pp.93-119
和田春樹(編)(2002)、『新版世界各国史22 ロシア史』山川出版社