阪大盤上舞踏会

運命と偶有の間でたゆたう電脳プランクトンの皆様へ
2021/10/29 2:59
ブログ

インターネット海洋の荒波に流されてこの淀みに辿り着いた皆様、ご機嫌いかがでしょうか。

申し遅れました、死刑執行中説明書執筆中のまっつーに替わりまして壇上に上がらせていただくのは盤上舞踏会のアートワーク担当、kawaiでございます。

ところで、あなたは自分と愛し合う人に出会えたことを”運命”だと思われますか?それとも”たまたま”(偶然・偶有とも言いますね)だと考えますでしょうか。

複雑系に支配された我々の海はたいへん数奇なもので、自らを運ぶ潮流が運命性の嵐によるものなのか、はたまた偶有性の凪によるものなのかといった疑問の前では、我々はただ敬虔な聖女のように祈ったり、大仰な哲学者のように沈黙したり、寡婦を誘惑する薬売りのように享楽に身を任せるしかないのであります。そしてその疑問が現実生活の中で確かな形を持って現れない人にとって、この疑問は無意味の神の支配する楽園にありましょう。あなた方がどう思うかに関わらずあなた方は産み落とされ、放逐され、漂流せざるを得ないという事実は、あなた方が絶えず産み落とす言葉、音楽、二酸化炭素、涙などのもろもろの分泌液、夜の住宅街の1つ1つの灯りの中の家族、昼の都市に段々と積み上がっていくビル群にとっても同じなのであります。

そして来たるゲームマーケット2021秋にてカードゲーム「ファム・ファタール」が我々から産み落とされます。


さて

わたしの迂遠な演説にその透明な甲殻の首を傾げた皆様。わたしが申し上げたいのは、上に述べた疑問と我々が制作する「ファム・ファタール」がその制作動機に加えて、その内容までも不思議な相似形を成していることでございます。大富豪に代表される一般的なファミリートランプゲームに倣ってこのゲームも手札を減らしたプレイヤーが勝利するというゴーアウト系なのでありますが、 「カードを一枚まで減らしたプレイヤーが勝利する」というように一人の「運命の女(ファム・ファタール)」(仏語では la femme fatale を選ぶ過程なのでございます。そしてあなたは他プレイヤーとの手札の読み合いの中で、伏せられた山札のドローというランダム性から逃れられないでしょう。

駆け引きの果てに手札を減らし一枚残した”女”が運命性の女神なのか、それとも偶有性の女神なのか

まさにそれがこのゲーム思想の中核でございます。


そして言うまでもなく

我々はこの疑問に関して作品の中である回答を打ち出しています。それは、

敢えて大量ドローを引き受けて勝利条件から一旦遠のくことが勝利のカギ

であることでございます。人類が悠遠な歳月をかけてこの世界の不可知だと思われていた領域を狭めてきたように、様々な効果カードを駆使して他プレイヤーの手札状況を読み、適切なタイミングで可能性の塊である大量ドローを引き受けることがあなたを勝利へと導く。これはまさにより綿密な理性と勇敢さによって多くの可能性を引き受け、運命ないし偶有を支配せんと試みることであります。いわば運命でも偶有でもない、頑な意思こそ実存の喜びを与えるということですね。


と、いたしまして、

長らく弁舌を垂れていたわたしですが、そろそろお時間が来たようです。来たるゲームマーケット秋とその後、「ファム・ファタール」はどのように複製・拡散・漂流を遂げていくのでしょうか。阪大盤上舞踏会はまた今後も皆様に招待状をお渡しできるのでしょうか。それは運命と偶有の女神しか知り得ないでしょうか。いやそれは違う!